― 海を渡った本堂と真宗門徒の物語 ―

 真宗大谷派 正行寺 (しょうぎょうじ)

蝦夷地(えぞち)と呼ばれ松前と称せられていた北の地が、北海道と命名せられ「北海道開拓」が時代の枢要課題とせられる中、道南や日本海沿岸そして道央より遠い道東の地はアイヌの人と地理的に近い東北地方の人が季節的に居住するほか、不毛の地として北方防備の急務、道東開発の要望が叫ばれても、人々の定住も道東の開発も遅々として進みませんでした。
そうした極めて少ない人の中にも佐賀藩移民の心に、個人移住の東北・北陸の門徒の心に、刑余者の心に、かって故郷で灯された念仏の灯はこの地に来ても消えることなく明治12年厚岸(あっけし)湾月(わんげつ)町仮説教場として実を結びやがて正行寺(しょうぎょうじ)となりました。
爾来ご門徒と歩んで風雪茲に136年。 親から子へ、子から孫へ。
長い星霜の流れに、舵とる舟人は代わり、櫂漕ぐ舟子は替わりました。

生死の難度海をわたらせて頂く船筏の舟子の胸にともされた御念佛の灯は絶えることなく、或る時は聞法の女人講となり、或る時は佛法領として佛堂・佛具が伝えられて来ました。
殊に有力な庇護者も外護者もなく只々念佛者の報謝を仰ぎ念力を力として遠く海を越え上越の寺院本堂を移築再建しようとすることは不可能と同義・無謀の策・狂気の沙汰と言われました。
敢えて無謀を選び狂気に挑んだ念仏者の、明治29年以来、20年を遙かに越える粉骨砕身の辛苦は、84年の後、平成4年多くの讃辞と道東唯一の建造物重要文化財のご指定を頂きました。
誠に栄誉この上なく、先人の功真に有難く存ずるものであります。
ご指定の栄誉もさることながら、創建以来上越の豪雪に耐えて100年、移築此の方、最果ての酷寒を凌いで100年。
古色蒼然たる御堂は、報われること誠に薄く、得るところ極めて少なき中にも、念佛をよろこびお浄土に帰って行った念佛者の尊い後姿を彷彿と今に伝えているが如きであります。