朝日山 正行寺の歴史
真宗大谷派は東北海道方面の開教のため、明治十年太平洋岸一帯の現地調査を実施。
厚岸は古くから栄えた要港であり、地元住民の心のよりどころとして明治十二年説教場設立を開拓使厚岸分署に出願、同年許可を得た。正行寺の創立である。
直ちに新潟県頚城郡斐太村(現新井市藤塚)出身で当時、札幌別院在勤中の朝日恵明を根室方面開教出張を命じた。恵明は明治十二年十二月二十日に着任し、湾月町に一民家を借り厚岸説教場を開設したのが正行寺の始まりである。
[正行寺本堂]
平成4年国の重要文化財の指定を受けた現在の正行寺本堂は新潟県西頚城郡西海村平牛(現糸魚川市平牛)の浄土真宗本願寺派満長寺本堂であった。
建立は寛政11年(1799年)とされる。建設棟梁は斉藤利兵衛である。
「新潟県の近世社寺建築」によると中規模本堂では内陣・余間背面に三連通しの仏壇が並ぶ形式で、独立した須弥壇を持つものは18世紀末からである。しかも三連通しの仏壇が並ぶ形式より改造し来迎柱に造り替え須弥壇を作った建物は内陣・余間背面に来迎柱と並ぶ柱が残る。
満長寺本堂は来迎柱に並ぶ柱が当初より無いため、内陣・余間背面に三連通しの仏壇が並ぶ形式ではなく、当初より独立した須弥壇を持つ後門形式で作られた建物である。
『海を渡った正行寺本堂』
明治39年(1906年)正行寺は本堂再建を決議した。
明治42年(1909年)満長寺本堂の購入を決定。同年7月2日解体された本堂を糸魚川市押上の海岸に仮置きを完了し、8月27日汽船小野丸に乗せ押上を出航し、9月1日に厚岸港に到着。
檀家信徒約120名で境内に運んだ。
明治43年(1910年)6月2日本堂再建に向けた起工式、地鎮祭を行った。
同年12月30日落成。
工事は主に檀家の寄付、労働奉仕により、組立ては地元菅原忠太郎の請負で行われた。
明治44年(1911年)3月12日遷座式を行い、正行寺本堂として現在に至る。
明治10年 (1877年)
東本願寺は、函館別院輪番岡崎元肇に根室支院支援及び道東方面に寺院設立の実状調査を命ずる。
明治12年 (1879年)
岡崎は陸路根室まで来、実状を本山に報告すると共に北海道開拓使に住民の寺院設立の希望を述べ、協力を依頼す。
東本願寺は北海道開拓使に厚岸郡湾月町に寺院設立を出願。10月付けで寺院設立を許可される。正行寺の濫觴である。
新潟県中頸城郡出身で札幌別院勤務の朝日恵明を北海道寺務出張所付とし、設立許可と同時に根室方面寺院設立開教を命ず。
朝日恵明は10月札幌を出発、小樽より乗船、函館を経て12月厚岸に着任。湾月町20番地に民家を借り、「湾月町仮説教場」を開設す。
明治14年 (1881年)
6月厚岸郡奔渡村番外地(現梅香1丁目19番地)に官有地663坪の払下げを受け、37坪の本堂兼庫裏を新築移転す。
明治16年 (1883年)
根室県令に「説教場一寺院引直並びに寺号公称」を出願、8月付で「正行寺」と公称することを許可される。
明治27年 (1894年)
新本堂建立の位置その他を考慮し、旧本堂兼庫裏を改築して仮本堂とし、庫裏を新築す。
明治30年 (1897年)
厚岸町奔渡村に正行寺付属説教場を開設。
明治39年 (1906年)
全役員会議にて全会一致をもって本堂再建新築を決定。明治40年募金開始。全門徒檀徒の労力奉仕、全面協力を決議決定す。
明治41年 (1908年)
梵鐘始撞式・奉告法要。 新潟県寶善寺横山秀啓氏より新潟県の真宗寺院本堂について通知あり。役員会にて協議検討す。
明治42年 (1909年)
横山氏の助言、総代による現地視察の結果購入に決定、契約す。現地業者により解体。汽船小野丸にて輸送、境内仮小屋に搬入す。
明治43年 (1910年)
3月本堂再建着工準備 6月2日起工式 9月17日上棟式 12月30日竣工。 8月東本願寺彰如門首(大谷光演台下)下向。
明治44年 (1911年)
3月本堂再建落慶遷座法要。
明治45年 (1912年)
本堂再建残務整理のため護法会発足。
大正 7年 (1918年)
奔渡村正行寺付属説教場を床潭村5番地に移転し、床潭村正行寺付属説教場と称す。
大正12年 (1923年)
水松柾葺き本堂屋根を亜鉛鍍金鉄板(トタン)葺に葺き替える。
昭和 3年 (1928年)
本堂外陣・参詣間天井を栓格天井に張替修理す。
昭和13年 (1938年)
納骨堂を新築す。
昭和17年 (1942年)
戦争のため梵鐘金属製仏具を供出。
昭和35年 (1960年)
正行寺本堂、厚岸町文化財に指定
昭和38年 (1963年)
梵鐘再鋳。始撞式・奉告法要。
昭和43年 (1968年)
庫裏を解体新築す。
昭和46年 (1971年)
納骨堂を解体新築す。
平成 4年 (1992年)
正行寺本堂が国の重要文化財に指定。
平成 9年 (1997年)
昭和43年再建の庫裏を解体庫裏新築す。
平成18年 (2006年)
文化庁の指導監督、文化財建造物保存技術協会の設計監理、アイチケンの施行、人間国宝馬場良治画伯の極彩色補修、絵画による保存修理施工。
平成21年 (2009年)
平成18年以降国庫・道・町補助による重要文化財正行寺本堂保存修理工事竣工。 鐘楼を登録有形文化財に登録。
平成26年 (2014年)
新潟県糸魚川市の満長寺の倉又住職はじめ檀家の方々34名が北の風雪に耐え今なお健在な正行寺本堂を視察に来寺。
平成28年 (2016年)
2016年7月新納骨堂が竣工。
寺号の由来
開基住職朝日恵明出身の新潟県中頸城郡藤塚村正行寺の寺号をそのまま用いたものである。
正行の語は遠く大経の論身正行から出ているものであろうが、近くは宗祖の正行雑行と云う御言葉から付けたものと思う。
山号の由来
寺号と同じく開基の出身寺の山号朝日山からとったものである。
朝日山と云う語の出た根拠は不詳であるが出身寺が現在地に創設される以前の地名から出ているらしいとのことである。
しかし現在当寺においては山号を用いていない。
新潟県満長寺から正行寺訪問
新潟県糸魚川市の満長寺の倉又住職はじめ檀家の方々34名が北の風雪に耐え今なお健在な正行寺本堂を視察に来寺いただきました。
厚岸正行寺本堂のルーツは満長寺の本堂であります。
この本堂は正行寺檀家の信仰の対象としてのみならづ、厚岸町住民の誇でもあります。
満長寺様からバトンを受け、そして後世へ受け継いでいかなければいけない宝物です。
厚岸 明治時代に本堂を移築
釧路新聞 2014年6月25日付 「新潟県から正行寺訪問」より掲載
「新潟県糸魚川市と厚岸町との間の見えない糸で結ばれた、ご縁を子々孫々に語り伝えていかなければならない」-1909年に新潟の地に建っていた浄土真宗満長寺の本堂を解体し部材を船で厚岸に運び移築して正行寺本堂として現在に至る歴史を振り返るため、23日に満長寺の倉又実住職をはじめ一行34名が来町した。
自分たちのルーツを訪ねる旅で訪れた人たちを前に正行寺の前住職、朝日正芳(96)「万感の思いが今もこみ上げてくる」と歓迎の言葉で出迎えた。 (伊東 義晃)
現在は国の重要文化財
厚岸町梅香1の19に建つ正行寺(朝日芳史住職)の本堂は1992年に国の重要文化財に指定されているが、この建物はそもそもは新潟県の満長寺の本堂として1799年(寛政11年)に建築された215年の伝統を今に伝える歴史的な建造物。
この歴史を確認するために「満長寺の歴史を訪ねる北海道の旅」として新潟から3泊4日の日程で一行が正行寺を訪問した。
地元を代表して若狭靖町長は「ようこそ厚岸町へ。心から歓迎します。
この建物はわが町の財産。これからもしっかりと、守っていく責務があります」と述べた。
引き続き満長寺の倉又住職と正行寺の朝日住職が互いに本堂の建物で結ばれた縁に感謝て、ともに先人から今に伝わる歴史を守る大切さを強調した。
このあと、正行寺の前住職朝日正芳さんが高齢で聴覚も衰え、歩行もままならず車椅子で新潟の人たちの前に立ち、自身が1961年に満長寺を訪れた思い出を語った。
この中で「船に積荷して送り出した当時の苦労を聞いて涙がこぼれてきた。
しみじみとご縁に結ばれていることに今も万感の思いが胸にあふれてくる。見えない糸でしっかりと結ばれている」と述べ、満長寺とのつながりに感謝した。
一行は引き続き正行寺の建物内部をつぶさに見学し、歴史の深さを今に伝える部分を写真に撮り、記録に残していた。
満長寺の倉又住職は「正行寺を訪れるのは2度目の体験です。
改めて先人からのご縁に感謝したい。
満長寺は平成の大改修として工事をしているが、その中から今から320年前に建てられたということが記されていることを見て、改めて歴史のつながりを感じさせられます」と語り、伝統を受け継ぎ次代につなげることの大切さを強調した。