初めての法要

慰霊碑建立への道  厚岸正行寺で初めての法要

初めての法要準備

遺族の皆様を調査して遺族会を結成して日連丸ゆかりの地、厚岸町正行寺で慰霊法要を行う計画は四十年という時間の壁につき当たって難行しました。
頼りにしたのは九死に一生を得られた方々でした。特に石川一義、佐藤恂一両氏は情熱を傾注してご協力いただいた。
遺族探しは中々進まなかった。そこで新聞社へ催し欄や探し人欄にのせてもらった。この小さな呼びかけに次々とご連絡を頂き何とか団体としてまとまる所まできました。
此のことは仙台放送、地元河北新報に「釧路沖で沈没された輸送船、惨事の概要突きとめる 四十年ぶり合同供養 仙台の佐久間さんら「やっと戦争が終わる」」として掲載されました。
次いで北海道新聞、釧路新聞が掲載し、日連丸の遭難が戦時中に於ける一般の遭難と異なり、日本の沿岸で太平洋戦争が始まって以来の事件として認識されNHKや朝日、読売なども取材された。

厚岸正行寺の法要と築筑恋海岸

築筑恋海岸

築筑恋海岸

正行寺は松の林に囲まれた境内の広い寺で門を入った右手には、日清、日露の戦役で戦死した厚岸出身者の人々の慰霊碑が立っており、日連丸、白雲の戦死者三千人の慰霊法要を行うには相応しいところでした。
八月四日(土) 午後法要は朝日師父子他の読経、燈明、焼香の煙で四十年ぶりでの現地法要が始った。
出席した遺族七十名、戦友九名、釧路、厚岸の関係者や遺体を収容した浜の人など計百二十名が参列した。
これだけの人が集まっても、聞こえるのは読経の声だけでした。
弔辞は戦友代表として斉藤清治氏が「今は亡き戦友に捧ぐ言葉」を切々と述べられた。
生存者代表は佐藤恂一氏。この厚岸沖の波間に沈んだ戦友に、今まで法要も出来なかった事を詫びながら、生きた者として今後の慰霊を誓う言葉であった。
私も「英霊に捧げる言葉」を申し上げた。石川一義さんの生存者紹介、最後に母が遺族代表でお礼の言葉を述べ法要は終わった。
その後遺体漂着した場所の、築筑恋海岸へ移動し遥か沈没地点の方向に遥拝し献花を行った。
これらの様子は報道八社が取材しメディアで放送で取り上げられた。