慰霊碑建立

慰霊碑建立への道  慰霊碑建立

地元有志、正行寺に慰霊碑建立

慰霊の碑

慰霊の碑

昭和六十二年、厚岸町郷土史研究家榊田春治さんが埒見吉雄さんら有志と語らい正行寺境内に慰霊碑建立を計画、以下の地元厚岸の人のみの資金と協力で建てられた。
朝日正芳氏
伊藤正敏氏
榊田春治氏
埒見吉雄氏
そして八月六日建立式と慰霊祭が行われた。
この碑は高さ二、七メートル、幅二十二センチのオンコの木の碑に輸送船日連丸、駆逐艦白雲戦死者追悼の碑と書かれた立派なものである。

 

 

 

 

日連丸、白雲遭難平和の碑 厚岸町愛冠岬に建立

正行寺の木柱慰霊碑は遺族が亡き夫や父の跡を尋ねて訪れた時必ず参拝する場所、心のよりどころとはなった。
然し、一方では本格的な碑を建てたいとの声も興ってきた。
榊田氏は厚岸町関係者へ碑建立と場所の借用について願書を提出した。
厚岸町からは緑のふるさと公園内建立を許可頂きました。
だだ碑文について公園の施設として景観にマッチし将来観光に答えられるものであり、遭難平和の記念碑とすると言う要望があった。
碑文はテルモピレーの碑文と志田すえのさんの挨拶の言葉から日連丸遭難の夜、将兵が叫んだであろう声、今でも海の底に眠る声なき声を書こうと考えた。
碑の裏面は松坂正寿氏に校正をお願いし、元国学院大学教授で碑文の造詣が深い古川清彦師に見ていただいた。
また山本正直氏の雄渾な筆勢により碑文は出来上がった。
碑の形状は碑のところを船形とし、日連丸に見立ててこれを二本の石で支え、英霊が船と共に海に浮かび上がって訪れる人に会う形となっている。
右側によりそうように立っている石は護衛駆逐艦白雲で、日連丸とともに沈んだが今も護っている姿を示す。
そして碑の両側には大黒島の石を配置した。
榊田春治氏、鈴木喜一郎氏はじめ多くの方々の協力で昭和六十三年七月二十四日碑は完成した。

法要と除幕式

筑紫恋海岸で慰霊献花

筑紫恋海岸で慰霊献花

昭和六十三年八月二十六日一旦、正行寺に集まり全員で築筑恋海岸へ。
献花は日連丸代表、吉田ますよ氏、白雲代表吉田百代氏が行った。
海は荒れて居て風も強かったが、幸い雨は小降りになり、殆どの遺族は車より降り、手お合わせておられました。

 

 

 

 

 

再び正行寺に戻り十一時二十分法要は生存者石川一義氏の司会で開始。
法要挨拶 石月照久氏、読経 朝日正芳氏父子、焼香は日連丸、白雲、捜索、歩兵百三十、第四野病各遺族代表、生存者、戦友、地元各代表、以下遺族並びに参列者順で行われた。
特に、第四野戦病院関係者の方々は今迄一度も慰霊祭もなく、また戦友会の招待、遭難戦死の説明も無かったとのことで今回漸く心に安らぎが出来たとのお話でした。

法要の後、除幕式のため寺を出て愛冠へ赴いた。
碑は北海道厚岸郡厚岸町アイカップ六番地 緑のふるさと公園(通称森林公園)
北海道道立厚岸自然公園の中にある。
式は神式に依る除幕式と宗教に依らない平和記念祭とに別けて行われた。
白雲会の岩本昭雄氏はじめ関係の方々多くのご協力をいただきました。
殆どは大阪以西にもかかわらず除幕式にも多数参列されました。
十四時、榊田氏の司会で愛冠の碑、日連丸、白雲遭難平和記念碑の除幕式が行われた。
除幕は遺族、戦友や地元の人々の気持ちも考慮し、参加者全員で長い紅白二本の紐を引いて行いました。
降神、献餞、祝詞奉上を行い、主催者祭文の詞、代表で佐久間博信が奉読申し上げた。

玉串奉奠
日連丸遺族代表      巨勢 典子氏
白雲遺族代表        岩本 昭雄氏
生存者          石月 照久氏
戦友代表         山之口 甫氏
地元代表           菅原 邦夫氏(厚岸町長)、鰐渕 俊之氏(釧路市長)、榊田 春治氏(発起人代表)

昇神の儀 撤餞にて除幕式は終わった。

続いて遭難平和の碑、平和式典が行われた。
岩本白雲代表は「ここを訪れる旅人が、この碑を見て、歴史に隠された痛ましい戦争の犠牲を知り、あらためて真の平和を祈念されるよう願うものであります。終わりに快く町有地を提供いただいた厚岸当局のご厚意に対し深甚な敬意と感謝を捧げます」と結んだ。

菅原厚岸町長は「北海の彼方に、海底深く永久に眠りにつかれた諸霊のご遺族にとって、厚岸道立自然公園景勝の地、愛冠岬は今は亡き肉親へ遥かに語りかけるに相応しい岬でもあるでしょう」と述べられた。
終わりに遺族代表として巨勢典子氏が謝辞を述べられた。
最後に遺族戦友を代表し厚岸町、正行寺朝日師、地元発起人榊田春治、協力者鈴木文雄両氏へ感謝状を差し上げました。

岬を訪れる人よ    わが故郷に告げよ
われらは眠る     この海の彼方に
祖国の平和と    残せし人を想いつつ
われらは眠る     とこしえに