寺の年間行事
新しい年を迎え心身共に新たに、正月1日より3日まで文字通り正月始めに修行(お勤め)する法会(法要)です。
寺院では「シュウショウエ」と読んでいますが、一般世間では「シュウセイ」と読みます。
予算修正とか軌道修正とか読み、会は会社や社会の「カイ」と読んでいます。
昔から年の始めに仕事や習い事に取りかかる時、多くの職場・職種・芸能の道では旧年を反省し心機一転、改めるべきはあらため短をおぎない長を伸ばすことを心掛けてきました。軌道修正です。
修正会の法要は気付きがたい佛様や多くの人や物のお力、お陰に心を向け感謝することの少なかった去年を反省し「軌道修正に会う年にしなさい」と教えている法要でもありますと申したら、牽強附会のこじつけと言われるでしょうか。
彼岸会とは、インドの言葉である梵語のパーラミターという言葉を「到彼岸」と訳し、こちらの岸からむこうの岸に渡って行く意味であるといわれます。
では此方の岸とは何処にある、どんな岸なのでしょうか。
そして向こうの岸とは何を意味しているのでしょうか。
物にも、心にも、体にも全ての事に満足することなく限りなく求めていく欲望。
抑えきれなく沸き上がってくる果てしない怒りと憎しみ。
その根底にあってその原因となり、拡大拡散させる智恵の光りなき底知れない心の暗闇。
そして積もる年齢とともに加わってくる病と死に対する不安の真っただ中に、身を煩い心を悩まし流転していく私のただ今の有様を佛は煩悩の「此方の岸」と教えられました。
佛はこの私たちを迷いの此方から、煩い悩みを超えた佛の国(浄土・彼の岸)にむかえとり覚りを開かせたい(到彼岸)との願いを建て、不安と苦悩の中に生きる私たちに、念仏を与えくださったのです。
春・秋彼岸会はを春分・秋分の日を中心に年二度行われ、その佛の慈悲に気付き念仏の道を歩ませて頂く法要行事です。
永代教とは詳しくは永代読経の略で地方・時代・各寺院により祠堂経・永代祠堂経等と呼ぶ真宗寺院の年中法要行事です。
誰もがそうであるように家族・身内・関係深い人が亡くなられた時、人情の自然発露としてその人を追讃美し、その忌日(命日・祥月命日)に読経する習わしが古くからの美俗として伝承されてきました。
しかし何時までも当初のようにありたいと願っても歳月が流れ社会が変わり、人間関係が移り意の如くならなくなるのもまた自然の成り行きでありましょう。
手次の寺院はこうした各人各家の意を受け寺院の年中行事として、期日を決めご案内し「法名記」を奉懸してご読経し、更に法要・読経の意味をお伝えし、また依頼した方も法要に参詣し出来る範囲において祠堂法要費の一部を負担し寺院の続く限り末永く継承してゆく法要です。
お盆とは詳しくは盂蘭盆会(ウラボンエ)と言いインドのウラバンナと言う梵語の音訳で「懸倒」の意味と言われます。懸とは「かかる」、倒とは「さかさま」のことでさかさまにかけられる、足を上にしてつり下げられると言うことです。
人間こんな苦しい事はなく大変な責め苦です。
お釈迦様の弟子の目連が生前の報いによって、逆さづりのような苦しみの中に落ちている亡きお母さんのために夏の安吾(修行休の日)に多くのお弟子たちに施しをし、苦しみから救うてあげたと言う説話から、私達も夏の終わりに今は亡き肉親・先人・知人にお花や供物をし、読経をし、亡き人を偲びその方々の真の願いに心を致す法要行事であると教えられます。
有名な説話ですから一度や二度お聞きになったことがあるかと思います。
これは勧善懲悪の昔話と聞き流していないでしょうか。
佛教を信じる信じないは別にして私達はお盆の一時なりとも今は亡き親たち・肉親のことを思い出すのではないでしょうか。
自分がその人々を知る知らずを超えその人々がいたればこそ今、私がいることです。
見える見えないにかかわりなく、その人々との深く長い「きずな」、広く強い「いのちの流れ」の中に今、此処にこの私が生かされている事実。
「俺そんなの関係ない」と言っても、その言葉さえ言えるまでに生み、生かし育てて下さった親・肉親は勿論、膨大な「いのちの流れのきずな」の事実。
お盆とは不可思議と言う外ないことを教えているようです。
今年のお盆をこのように受け取らせて頂いたら如何でしょうか。
報恩講とは恩に報いる講(あつまり)と言うことです。では私達はどんな恩を受けているのでしょうか。
私達は大事なものをたくさん持っています。
親・子から始まって夫婦、職場、同僚、財産、名誉、趣味道楽、ペットに至るまで数えきれないほどたくさん持っています。
しかし中でも一番大事なものは何でしょうか。
そりゃ「いのち」だろうさ。
昔から「いのちあってのもの種」と言うではないか。いのちが無かったら何もはじまらない。言われる通りです。
毎日のテレビ、新聞を見ても健康・病気について放送され薬の広告で溢れています。
私達はそれだけ「いのちあってこそ」と「死」を恐れ「生」にしがみつき「健康・病気」に振り回されているのではないでしょうか。
最近の科学は私たちの体は時々刻々に死に、時々刻々生まれているのだと教えています。その通りなのでしょう。
だからと言って私達は新しい細胞が生まれるからと安閑としていられるでしょうか。
こう言っている間にも健康と若さは消え、生(いのち)は間違いなく去りゆき死は否応なく近付いています。
私達は限りなく苦悩を背負い、果てしない愛憎を抱え、生と死の溢れるばかりの不安の真っただ中に生きているのではないでしょうか。
頼るものもなく自らの力は更になく、大海に浮かぶ木の葉のような私達に「生の依る処・死の帰する処」(生きる拠り所・死して帰り行く所)である佛の大いなる本願浄土を建立して下さった佛のご恩に、そしてそのことを教え広めて下さった親鸞聖人のご恩に報い感謝する法要です。