日連丸白雲秘話

誰か『日連丸(にちれんまる)』を知っていますか

陸軍輸送船  日連丸  戦死者 二千八百余名   救出者 四十七名
駆逐艦      白雲   戦死者     二百七十名    救出者 なし

昭和五十七年八月七日付北海道新聞に掲載された「釧路沖で沈没、父の情報を面影を追い三十七年遺体漂着地で法要したい」が契機となり陸軍輸送船日連丸(にちれんまる、護衛駆逐艦白雲(しらくも)の生存者、遺族の方々との縁が広がり、正行寺(しょうぎょうじ)での法要、慰霊碑建立へと発展致しました。


愛冠岬昭和19年(1944年)3月16日、釧路港を出港し中部千島に向かった陸軍の輸送船が釧路沖でアメリカ潜水艦の攻撃により撃沈されました。
輸送船の名前は『日連丸』といい仙台で編成された第42師団などの将兵2,800人余りが乗船していました。
釧路で出港準備を整えた日連丸などの輸送船4隻は3隻の護衛艦に守られ16日の午後4時ごろ釧路を出港しました。
同日午後6時30分ころ潜水艦『トートグ』のレーダーによって発見されました。
『トートグ』の魚雷によって日連丸(にちれんまる)は午後8時30分ころ、駆逐艦『白雲(しらくも)』は午後11時30分ころ沈没しました。
極寒の海中に残された将兵が救出されたのは、翌17日の午前8時30分ころになってからで救出されたのはわずか日連丸の48人(救出後2人死亡)だけでした。
救助した将兵を何処に収容するかが問題となりました。
本土と目と鼻の先の釧路沖で輸送船が攻撃され、たくさんの将兵を失った事は軍事機密上絶対に知られてはいけなかったのです。
陸軍第33警備大隊(大隊長 大山柏中佐)の分屯隊が正行寺(しょうぎょうじ)に駐屯していたこと。また人口も少ない厚岸は十分秘密が守られると判断されたものです。
正行寺に収容された将兵は、憲兵隊の厳重な監視下に置かれ、収容に際して協力した町民などにも秘密厳守が徹底されました。
その後、遭難者の遺体が筑紫恋(つくしこい)や大黒島(だいこくじま)、昆布森村(こんぶもりむら)の海岸のほか、はるか東北地方沿岸にも漂着しました。
正行寺でも7人ご遺体を安置いたしました。
このことは軍の監視の中で秘密裏に処理されました。
そのためこの事実がわかるのは昭和57年(1982年)になってからの事です。
遺族の方が亡くなられた場所が厚岸沖であることを知ったのは戦後40年もたってからとなりました。
― 厚岸「広報あっけし」を参考 ―


日連丸遭難の真実 -海上交通の保護と輸送船事故-

%e6%97%a5%e9%80%a3%e4%b8%b8%e9%81%ad%e9%9b%a3%e3%81%ae%e7%9c%9f%e5%ae%9f日連丸(にちれんまる)、白雲(しらくも)の撃沈の様子は2015年11月15日に文芸社より出版されました「日連丸遭難の真実」に詳細が記載されております。
今回、著者であります内藤裕史氏のご厚意により日連丸、白雲の轟沈の様子が書かれた部分を抜粋し記載させて頂きました。
日連丸、白雲だけでなく千島列島へ向かった多くの輸送船や当時の状況が詳細に書かれています。
機会があれば是非お読みください。
日連丸遭難の真実 -海上交通の保護と輸送船事故- より抜粋
内藤裕史 著書 (文芸社)

日連丸遭難

日連丸の沈没は、太平洋戦争中に撃沈された500トン以上の日本の輸送船3千隻のうちの1隻で、千名以上の犠牲者を出した48隻のうちの1隻だが、その特徴は下記の三点である。

1.乗員約2,000名のほとんどと、護衛の駆逐艦「白雲」の将兵が全員死亡。
2.釧路のごく近海で起きた事故でありながら沈没が極秘にされ、明るみに出たのは38年後。
3.北緯40度(秋田県男鹿半島入道崎付近)以北、国際日付変更線以西の北太平洋で起きた輸送船事故として最大。

沈没

「日連丸」5,460トンは大正8年山下汽船の貨物船「ウラル山丸」として竣工、昭和12年日産汽船に移籍され「日連丸」と改名、開戦時に陸軍に徴用されていた。
大本営は、3月10日まで輸送が無難にいけば千島は大丈夫、という見方であったが、2月28日以降の2週間に千島航路で「會幸丸」「明石山丸」「良洋丸」「隆亜丸」「松仁丸」が撃沈され、陸海軍の防備施設の増強は予定の半ばにも達していなかった。
そういう状況下、「日連丸」など4隻の輸送船は中千島の得撫(うるっぷ)島を目指し相次いで小樽を出港、3月10日釧路港で合流した。

大湊(おおみなと)警備府の第9駆逐隊の護衛司令艦「霞(かすみ)」は「明石山丸」と「良洋丸」の護衛を終えて(とは言え実際は、前者の沈没を見届け、後者の擱座(かくざ)に立ち会い)、3月14日午後釧路港に入港、「白雲(しらくも)」「薄雲(うすぐも)」も厚岸(あっけし)で重油の補給を終え16日の午前中に入港、16時に「日連丸」「山菊丸」「慶安丸」「梅川丸」の4隻を護衛し出港、進路を南南東に取った。
この船団を釧路港外で待ち構えていたのがトートグだった。
トートグは太平洋潜水艦隊司令部から、4隻の輸送船と3隻の護衛艦からなる船団が16日釧路を出港し中千島に向かうと言う情報を得て、3月13日に中千島で「隆亜丸」「松仁丸」を撃沈した後、釧路沖に向かっていたとみられる。
ミッドウェーに帰投するなら中千島(なかちしま)から南東に向かうはずだが、釧路は中千島とミッドウェーを結ぶ線から90度南西方向に約千キロあり、わざわざ寄り道をしたのである。釧路へ向かうトートグを発見したのが陸軍航空隊の哨戒機である。
この時期、後述するように、北太平洋で作戦中の米潜水艦はトートグ1隻だけだから、その1隻が、中千島とミッドウェーを結ぶ線から千キロも外れた釧路港外で、点と点が重なるような形で「日連丸」の船団に出会ったのが偶然だったとは、港を出れば米潜水艦の出迎え受けるのが常態、という当時の状況からしても、到底考えられない。

船団は出港前の第1水雷戦隊司令部からの指示により7.5ノット(時速14キロ)で航行、船足(ふなあし)6ノットの老朽船「日連丸」が脱落したため「白雲」が単独で捜索にあたっていた。
一方、レーダーでこの船団を捉えて追尾し暗くなるのを待っていたトートグは、1隻の輸送船に対して魚雷を4本発射、うち2本が船尾に命中、「日連丸」は16日20時21分、釧路町の昆布森(こんぶもり)海岸の南23キロの地点で沈没した。
沈みつつある「日連丸」の甲板では船舶砲兵が見えない敵潜水艦に対して速射砲(37ミリ対戦車砲)を乱射、釧路出港時に「日連丸」に続いて出港し一番近くを航行していたと思われる「山菊丸(やまきくまる)」の船舶砲兵もまた速射砲を乱射、「白雲」は誤認を恐れ、「ワレシラクモ(われ白雲)」と発光信号を送った。
輸送船は効率的な潜水艦対策として、少なければ2隻、多いときには50隻以上の輸送船が船団を組みこれに護衛艦が付き添った。
また同時に、魚雷の命中率を低減、針路を欺くためシグザグ運動(之字(のじ)運動)の航行が必須だが、各輸送船が勝手にこれをすれば忽ち衝突の危険が生ずる。したがって、船団の航行はあたかもラインダンスようでなければならず、出向前の船団会議で、船の順位、隊形、船速、航路、航法、連絡方法などが決められ、特に航法すなわち之字運動の方法は厳守が求められた。
1隻だけ船足が異なる船がいると船団全体の航行に支障を来し、かと言って船足の遅い船に合わせると船団全体の輸送効率が落ちるだけでなく、潜水艦の脅威にそれだけ長い時間曝される。したがって船足の遅い船は取り残されがちである。

山菊丸

船団の司令艦「霞」は「日連丸」の沈没に気づかなかったが「山菊丸」に乗船していた兵士たちは異変に気付いている。
すなわち、歩兵第130連隊千田大隊の永田達吉によれば、「出港した3月16日夜8時半頃、ドスンという音で尻がとび上がるような衝撃を感じ、何が起こったのかさっぱり分からなかったが、暫くしてドカン、ドカンという音が2、3回した」(永田 1979)。

同じく千田大隊の鳥羽今朝勝によれば、「突如、甲板上に積み重ねたドラム缶が一度にひっくり返ったような轟音と共に電灯が消え、暗闇の中で装具をつけその上に救命具をつけ待機した」(鳥羽 1979)注:魚雷が爆発すると、近くの船では電灯が消えるくらいのショックを受ける)。

「山菊丸」に乗船した歩兵第130連隊第8中隊の庄子泰治郎によれば「急に裸電球が消え何かドラムカンでも叩きつけるようなドガーンという大きな音がしたと思ったら、甲板上でカタカタと駈足の軍靴の音、かん高い声と同時にピーピーピーと非常スピーカーで、右舷に敵発見、只今攻撃中、と連呼され、甲板の戦砲隊攻撃の砲撃の音のみが聞こえ出した」「夜が開けて用便に甲板上に立った者があったが、釧路へ引き返したんだ、日連丸が見えない、と大騒ぎになった」(庄子 1991)

連隊砲中隊第3戦砲小隊の渡辺二郎によれば「ドドドーンという地鳴りのような、雪崩の雪塊が一度に落ちて来たような不気味な音が船体を震わせ、船が高く押し上げられ次にはスーッを落ち込んでいく。攻撃から逃れようと全速力で左右に蛇行しているのが船艙にいても分かる。船内では怒号と罵声が渦巻くが、しばらくして、山菊丸ではない別の船だと判った」(渡辺 1985)

歩兵砲小隊の高橋健吉は、「山菊丸」に乗船するため小樽市山の手の坂道を歩兵砲を曳いて港へ向かう途中、道路脇で挙手の礼をする若い兵隊を見た。徴用され何年も逢っていない弟だった。仙台の輜重(しちょう)隊に召集され3日前に小樽に着き今日乗船する予定だという。
高橋は「山菊丸」に乗船、流氷の北海道沖を千島に向かっていた3月16日夜、ドカンと遠くで音がして甲板を駆け回る軍靴の音、砲撃の音を聞いたが、兵士たちは横になって寝ている以外なく、後で船団の1隻が米潜水艦の魚雷攻撃で沈没したと聞かされた。
4月3日無事得撫島に上陸、雪を掘り天幕を張りダイナマイトで海岸絶壁に洞窟陣地造りをしているとき郷里の海事代理人からの手紙で弟が日連丸に乗っていて3月16日死亡したと知らされた。
仙台で日連丸戦死者の合同慰霊祭があり関係者は帰省を許すから申し出るように通達があったが、弟の死は、兄には知らせないで欲しいという親からの便りで小隊長の手元で留められていた(高橋健吉 1979)。流氷の海で聞いたあの”ドカン”は弟の死の弔砲であった。

白雲の轟沈

船団は「日連丸」の沈没に気づかないまま進行、23時35分、今度は「白雲」自身がトートグにつかまり魚雷攻撃により轟沈、厚岸町愛冠(あいかっぷ)岬(北緯43度01分、東経144度50分)の南67キロの地点(北緯42度18分、東経144度11分)であった。
500メートル後ろを進んでいた司令艦「霞」が爆発音と閃光を認め現場に到着した時には「白雲」の姿は既になかった。
漂流者を探そうと船を停め海上を探照灯で照射すれば敵潜水艦の目標になる。船団は釧路港に引き返したが、途中夜が明けてから「日連丸」が見えないのに気付いた。
そして翌17日14時55分司令艦「霞」は、「白雲」乗務員救助に向かった駆逐艦「薄雲」から、「日連丸」の乗務員を救助したという機密電報を受信、「日連丸」の沈没を知った(第一水雷戦隊戦時日誌)。
「白雲」1,680トンが轟沈した際の爆発音と閃光は搭載していた95式爆雷60個(炸薬総量6トン)と9本の61センチ魚雷の誘爆によるものであろう、14歳から19歳の少年志願兵31名を含む270名の将兵すべては瞬時にして海に呑まれた。「白雲」本来の乗務員は219人だが、伝令や弾丸運びなどに少年志願兵が使われていた。
駆逐艦はフットワークの良い攻撃が生命だから、装甲喫水線付近の舷側で7ミリ前後と薄く(戦艦「大和」で400ミリ、重巡洋艦で100ミリ)、”ブリキ缶”と呼ばれていた。
米国の魚雷1発の炸薬300キロは戦艦「大和」の46センチ徹甲弾8発分で、魚雷・爆雷の誘爆もあるから、1発まともに命中すれば、大きな水柱が立ち、それが消えた後には何もなかったという状態で、乗務員は全員死亡というのが普通だった。

暗闇の海を漂流中の「日連丸」の兵士は「白雲」轟沈の閃光を見、音を聞いている。
輜重(しちょう)兵第42連隊、石川一義が暗黒の大洋を朦朧とした意識で漂流している間に、魚雷の爆発音が海面を伝って来た。続いて雷の様に轟音が数回ゴロゴロと長く尾を曳いて響いた。救助されて聞いたところによると、それは護衛の駆逐艦「白雲」の轟沈の音であった(石川 1979.注:音の伝わる速さは、海中の方が空中より速い)。

遠藤中隊の鈴木喜一郎によれば「遠い遠方で閃光が走り、にぶいドカンという音がした。後で知ったのだが、そのにぶいドカンという音は敵潜により護衛艦の白雲が轟沈のものということであった」(鈴木 1984)

ちなみにトートグの太平洋戦争中の撃沈数26隻は米潜水艦中最多の成績だから、3月13日の「隆亜丸」と「松仁丸」2隻に続いて「日連丸」と「白雲」と4日間に4隻という戦果はトートグにとっても格別の意味を持つ。トートグはこのあと5月には千島列島を再訪、3日「伏見丸」、8日「宮崎丸」、12日「第2万栄丸」を撃沈している。

救助された将兵たちの隔離

「日連丸」に乗船していたのは、記録によれば、42師団第130連隊を中心に1,869名、船舶砲兵26名、日連丸乗務員船長以下77名、計1,972名だが、このほかに、船団の経理部、通信隊、衛生隊、100名を超える航空整備隊など総勢2,800名くらいの将兵、乗務員が乗船していたとみられる。

第42師団は中千島への戦力増強のため急遽編成された部隊だったから、縄梯子による輸送船とボートとの昇り降りや上陸用舟艇の速成訓練が必要だった。
そのため、一旦乗船した兵士を訓練のため下す例がある一方、便乗者の形で予定にない部隊が乗り込むことがあったから正確な人数は分からない。
したがって、犠牲者数は船員76名を含めて1,934名とされるが、この数は、実際に乗船していた人数が多ければその数だけ多くなる。
少年志願兵と少年船員計47名も溺れて死んだ。
救助されたのは、船員1名と、船舶砲兵1名を含む将兵46名(救助後死亡2)で、救助した駆逐艦「薄雲」と「霞」は「白雲」の沈没海域を捜索した後18日、沈没地点の真北70キロ、釧路市の東約40キロの厚岸(あっけし)港に向かった。

釧路海軍武官府付きの先任下士官ら2名は大湊警備府の指令で汽車で厚岸に向かい、「山菊丸」の歩兵130連隊本部から黒木大尉以下3名が派遣され漁船3隻を借り受け、湾内に停泊中の駆逐艦に赴き救助者を引き取った。
しかし「帰路流氷に閉じ込められ、大変な苦労と時間をかけ桟橋に辿りつき」(高橋正人 1979)、「帽子と靴が無い上陸のため、軍帽と軍靴は海軍より借り、軍服は陸軍という全くもってけったいな姿で」、「薄暗くなった頃ポンポン船に乗って上陸し(著者:敗残兵のような海没兵の姿を町民の目から秘匿するため闇に紛れて上陸)、直ちに消防自動車に分乗して雪道を走り(著者注:頭から毛布を被せられ)、療養先のお寺に着いた。確か厚岸林務署の隣、正行寺(しょうぎょうじ)という大きなお寺で、防衛隊の屯所(とんじょ)でもあった」(佐藤 1979a)

「日連丸」と護衛艦の沈没はすでに釧路市内の海運関係者には知れわたっていた。
しかし、近海での兵員の大量海没死をこれ以上、国民に知られてはならないということであろう、寺の門前では帯広憲兵隊釧路憲兵分隊の憲兵が見張りに立ち、箝口令(かんこうれい)が敷かれ、外出も寺の人たちとの会話も一切禁止され、町民から完全に隔離された。
人口1万人足らずの漁業の町・厚岸は、人目に付きやすい釧路市より機密保持の上からも適当であった。
厚岸町の筑紫恋(つくしこい)、大黒島(だいこくじま)、釧路市寄りの釧路町跡永賀(あとえいが)、仙鳳趾(せんぽうし)村(現・釧路町仙鳳趾)の別尺泊(しゃくべつどまり)の海岸には20数体の兵士の遺体が漂着あるいは漁船により引き上げられた。
海岸は憲兵により立ち入り禁止とされ、憲兵の手で遺体は片端から荼毘(だび)に付され遺骨は持ち去られた。
遺体の多くは海流の影響で東北地方の太平洋岸、遠くは房総半島にまで合計80数体が流れ着いたが、家族のもとに届けられたのは「北方輸送作戦中に戦死」、などという戦死公報と空の骨箱だった。

厚岸には、根室(ねむろ)駐屯の第33警備大隊の角田小隊40名が厚岸分屯隊として正行寺の本堂に駐屯していた。
18日22時、この分屯隊から根室の第33警備大隊に「日連丸」遭難の報と軍医派遣の要請があり、翌19日、軍医中尉以下3名が派遣された。
厚岸は、昭和10年8月、戦艦「山城(やましろ)」旗艦とする連合艦隊82隻が大演習のため停泊したことのある、奥行きの深い湾の入り口にはこれを扼する形で大黒島、小島(こじま)の二島が控える天然の良港である。
太平洋に直接面しているため、外からの攻撃に弱いという難点がある一方、艦船の出入りには至極便利で、北海道南東海面で唯一の、艦隊の前進待機泊地および防衛艦艇の根拠地としては絶好であった。
16年12月には大黒島海面砲台が完成、17年5月以降、重油補給施設が完成してからは、釧路港を発進する駆逐艦などは厚岸で重油を補給し釧路港に取って返し目的地へ向かった。
19年4月には厚岸防備部隊が編成され、対潜航空兵力を増強するため奔渡(ぽんと)町に水上偵察機6機、愛冠防空砲台、床潭(とこたん)防空砲台、大黒島海面砲台には高角砲、12センチ砲、110センチ探照灯ほかが設置された。

厚岸防備部隊の防空砲台があった厚岸町愛冠岬に「陸軍輸送船日連丸、海軍駆逐艦白雲の遭難平和記念碑」が建ったのは昭和38年8月である。・・・・

著者プロフィール%e5%86%85%e8%97%a4%e8%a3%95%e5%8f%b2%e5%85%88%e7%94%9f

昭和7年生まれ
昭和後期-平成時代の麻酔学者,中毒学者。
エール大付属病院勤務,札幌医大助教授などをへて,昭和51年筑波大教授。のち茨城県立医療大副学長、茨城県立医療大名誉教授。
昭和56年筑波中毒センター(中毒110番)を開設,61年(財)日本中毒情報センターを設立した。
平成3年中毒症状治療のバイブルといわれる「中毒百科」を刊行。
平成13年つくば中毒研究所所長。
平成16年吉川英治文化賞を受賞。東京出身。札幌医大卒。


輸送船 日連丸、護衛駆逐艦 白雲、司令艦 霞、輸送船 山菊丸

日連丸(にちれんまる)
横浜鶴見の浅野造船所(現ユニバーサル造船京浜事業所)で大正9年2月(1920年)竣工
山下汽船「ウラル山丸(ウラルさんまる)」として就航
大正15年(1926年)より樺太汽船貨物船「第12平榮丸(へいえいまる)」として就航
昭和13年(1938年)合併により新会社日産汽船に継承され「日連丸(にちれんまる)」と改名
その後第二次世界大戦時に陸軍が徴用

白雲 (しらくも) -護衛艦-

駆逐艦 白雲

駆逐艦 白雲

白雲は日本海軍の駆逐艦。
昭和2年(1927年)藤永田造船所で建造、進水した
当初の艦名は第42号駆逐艦、昭和3年(1928年)白雲と改名
日中戦争では華南での沿岸作戦、北部仏印進駐作戦に参加
太平洋戦争では南方進攻、ミッドウェー海戦、ソロモン諸島の諸作戦に参加
その後、北方で海上護衛、哨戒活動に従事。
全長 : 118.5メートル
全幅 : 10.36メートル
兵員 : 219名

霞(かすみ) -護衛司令艦-

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「霞」は日本海軍の朝潮型駆逐艦。
浦賀船渠で1936年(昭和11年)12月1日に起工。 1937年(昭和12年)11月18日に進水
全長 : 118メートル
全幅 : 10.38メートル
兵員 : 230名






山菊丸(ヤマキクマル)

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山下汽船「山菊丸(やまきくまる)」として就航