日連丸を求めて

慰霊碑建立への道 日連丸を求めて

日連丸遭難の夜、将兵が叫んだであろう声、今でも海の底に眠る声なき声を・・・・
「ここを訪れる旅人が、この碑を見て、歴史に隠された痛ましい戦争の犠牲を知り、あらためて真の平和を祈念されるよう願うものであります」

日連丸、白雲遭難平和の碑
厚岸町愛冠岬(アイカップ岬)に建立   -多くの協力を得て-
建立の会代表幹事 佐久間 博信氏の続鳴呼中千島掲載の手記「慰霊碑建立への道」より抜粋


日連丸の遭難と戦死の公報

昭和十九年二月一日軍は北方防衛の為、主として宮城、福島、新潟及び一部山形の各県よりなる第四十二師団に動員召集を行い、将兵を増員して新しく戦時編成とし、同年二月中旬以降仙台、会津若松、新発田の各地より軍用列車で出発、北海道小樽に集結しました。
三月五日、下記の部隊が日連丸に乗船しました。
輜重兵四十二連隊(勲十部隊)
捜索四十二連隊(勲六部隊)
歩兵百三十連隊第三大隊(勲四部隊)
第四野戦病院(勲十五部隊)
公報では、第四十二師団関係部隊一八六九、船舶工兵二六、計一八九五名の中、戦死四十二師団一八二五、船舶工兵二五、計一八五十名、救助された者四七名(船員一名を含む)
但し、これには日連丸乗組員船長室岡広、梶谷善次を含む七六名は入って居ない。
公報の外に戦友乃遺族の話や関係者より次の部隊及びその追及者が乗船して居たと思われる。
師団司令部参謀部、経理部十ニ名、野砲第四二連隊(勲七部隊)、工兵第四二連隊(勲八部隊)、師団通信隊(勲九部隊)、兵器勤務隊(勲十一部隊)、師団衛生隊(勲十二部隊)。更に四十二師団以外も乗っていた話もある。
日連丸乗船の詳細が当時に於いても不明の為、当初の公報ははっきりしている部隊に対しては十九年六月二十二日付で公表しましたが、本人が島へ到着せず、その後の調査で判明したものは七月中旬以降に留守宅への通知とともに公表されました。

三月十六日、十六時釧路を出発した船団は翌十七日早朝七時、三艘の輸送船が釧路港に帰港したが、日連丸の姿は無かった。
この話は海運や港湾関係者や漁師達にすぐに話題になったが、此の噂を広めた関係者が軍機保護法違反で次々と逮捕され、人々の口は堅くなったのである。
軍は六月二十二日、官報告示により逐次留守宅へ戦死の旨を通報した。

日本の海岸でありながら、実に四十年間誰も慰霊に訪れなかった。
北海道厚岸町筑紫恋(つくしこい)海岸、愛冠(あいかっぷ)岬その海岸、その岬の名称、実に祖国を愛し、故郷に残した肉親を恋し、想う気持ちがにじみ出る地名であるのは、偶然であっただろうか。


日連丸の跡を尋ねて

昭和三十八年七月私は厚生省を訪れ第四十二師団の十九年の行動と三月十六日の状況を調べた。
すぐに四十二師団将兵乗船日連丸、三月十六日沈没、釧路沖二十キロと判ったが、遺体処理までは判らなかった。
戦後の混乱を乗り越え生活が安定するにつれ、私共は日連丸の跡を追うことにした。多くの遺族も又同じであった。
当初は日連丸の名さえ知らなかった。
戦後の苦しい生活が一段落すると、遺族たちは北海道を訪れ、最後の便りのあった小樽や釧路、根室、道東の海岸を遺影を求めて探し歩いた。
然しその殆んど否、総べての人が何も手掛りを得ることはなかった。
夫を求めて道東海岸、特に釧路を訪れた妻は多い。
私たち家族も昭和五十年七月日連丸の端緒もつかめなかったが戦争中に軍人の遺体が漂着し、法要火葬を行ったという釧路村昆布森(こんぶもり)海岸の寺院教照寺で法要を行った。


昭和五十七年の調査と報道の協力
昭和五十七年七月一日、今度こそ日連丸沈没の真相と遺体の漂着した場所、生存者の消息を入手すべく妻和子と釧路へ出発した。
しかし、思うような情報は得られなかった。これはマスコミの力を借りなければ、個人の力ではどうする事も出来ないと悟った。そして釧路市役所を訪れ市役所と報道の協力をお願いしました。
早速、北海道新聞、釧路新聞の記者を手配頂き、記事の掲載と調査の協力を求めた。
此のことは翌日の釧路新聞に掲載され大きな反響を呼ぶ事となった。
また五十七年八月七日付北海道新聞に「釧路沖で沈没、父の情報を面影を追い三十七年遺体漂着地で法要したい」が掲載され、日連丸関係は全遺族へと発展していったのであります。


日連丸沈没時の実情
流石に報道の力は大きく一気に真相に迫って行きました。
地元最大の協力者、佐久間令次さんから日連丸の出港前後の事情と日連丸、白雲の沈没により憲兵と警察が動いて厳重な緘口令を行ったため、事件は軍事秘密となって後世に伝わらなかったことの詳細をお知らせいただいた。
厚岸町の正行寺住職朝日正芳(あさひ まさよし)師とその関係の皆様から生存者全員の収容と遺体の法要、火葬の場所、そしてその前後に漂着した遺体の場所等が判った。
日連丸は先述した通り、釧路町の昆布森海岸南二十三キロの地点に沈没した。
冬期なので北からの親潮とその反流によって飛び込んだ将兵の大部分は当初は北北東へ、次いで南東へ流されたものと思われる。
その為、遺体の大部分は青森県下北半島の八戸あたり海岸に多く打ち上げられ、遠くは銚子近くにあがった遺体もあった。
厚岸町は生存者救助の時に、凍死した二遺体、築筑恋で二から四遺体、大黒島で二遺体と言われている。厚岸町の分は正行寺が生存者を収容しており、憲兵の警戒も厳重で一応安置し朝日正芳師と父の住職が法要を行った。
正行寺からは生存者の住所氏名も教えていただいた。