北の大地 厚岸 アイヌ語「アツニケウシ」を語源とする町
明治44年(1911)「東宮殿下行啓記念 北海道厚岸写真帖」北海道厚岸町奉迎準備会より掲載
楡の木の皮(アッシの皮)を剥けるところ ・・・ アツニケウシ
厚岸と云う地名はアイヌ語の「アツニケウシ」に由来すると言われる説が有力です。
厚岸には他にもアイヌ語を語源とする地名がいくつも残っており相当古くから多くのアイヌの人達が住んでいた事は近年の調査・研究から明らかになっている所である。
当地名が出てくる札幌別院発行の「東本願寺北海道開教史」の松前藩古文書とカストリクム号船長フリースの「日本旅行記」によるとオランダの東インド会社所属カストクリム号が寛永20年(1643)8月16日から17日間船体修理、食糧補給のため厚岸へ入港した記述が残されている。
これは北海道へ外国船が入港した最初の記録でもある。その後、幕府は文化元年(1804)東北海道(十勝、釧路、根室、千島の四国)北辺防備のため三官寺の一つ国泰寺の設置を決定した。
当地は東蝦夷地の中心地であったが役人、国泰寺僧侶以外はほとんどアイヌの人達であったようである。
そして明治と改元され、北海道開拓が本格化した明治2年(1896)8月より厚岸は2年間佐賀藩の所轄となり250名の藩士が来住している。明治5年には官立病院が出来、付近を湾月町と呼ぶようになり当地の中心部であった。
念仏と共に北の大地に生きる
明治44年(1911)「東宮殿下行啓記念 北海道厚岸写真帖」北海道厚岸町奉迎準備会より掲載
朝日恵明が厚岸に説教場を開設して約30年後頃の写真と思われます
開基朝日恵明が渡道した直接の原因は不詳であるが、明治初年以来の北海道開拓と云う大きな流れと明治3年現如法嗣の開教就中、出身地新潟県からの移住奨励が大きな力であった事は容易に推察される所である。
渡道は妻帯者でなければならない事もあり、明治6年(1873)妻ヤスを迎え明治9年(1876)7月29日国元出立、同年10月札幌に到着。恐らく一人の知人、縁者もいなかったと思われる。
札幌では別院内に夫婦居住していたと思うが、在住中はあらかじめ覚悟して来たものの厳しい風土と慣れぬ環境に落ち着かぬ気持で暮らしていた。
その中、北海道布教事務主任楠潜竜氏とは上司と云うばかりでなく師弟関係でもあったらしく色々世話になったようである。
楠氏は恵明に明治12年(1879)9月19日付けで仮説教場設立を命じた。
帰国を目前にした恵明は遠く下場所へ行く事は出来ぬ旨を訴えたが、楠氏の「柱四本立て仮説教場の看板を掲げて来るだけで良い」との説得を受け同年12月20日函館から環浦丸に乗船、翌春4月まで全く交通が途絶える厚岸の地に同月26日まさに不退転の決意で妻ヤスと二人降り立ったのである。
翌年13年(1880)1月10日、湾月町にご本尊を奉掲した仮説教場を開設した。1月29日から布教活動に入った。信を唯一の力として言葉の通じないアイヌの人達と極少数の真宗系の和人18戸を対象に発足した。
しかし佛祖の御冥祐の下、熱心な布教の甲斐あって4月門徒の中からご本尊をお受けしたいと云う者が15名も出るほどになった。
楠氏とは厚岸へ移住後も久しく文通し「念仏と共に北の大地に生きる力」となったようである。